まことに、みことばは、あなたのごく身近にあり、あなたの口にあり、あなたの心 にあって、あなたはこれを行うことができる(申命30:14)。
みことばは行うもの。その時、それが実現する。そのためにこそ、みことばは私たちに与えられた。人には二つの生き方がある。一つは、従順さをもって神に従い、そのみことばを実現させていく生き方。結果はいのちと祝福。もう一つは、不従順さをもって神のみこころに逆らって生きる生き方。結果は、死とのろい。エデンの園の中央に生えていた、いのちの木と善悪の知識の木は、この二つの生き方をシンボル的に表している。
神である主は人に命じて仰せられた。「あなたは、園のどの木からでも思いのまま食べてよい。しかし、善悪の知識の木からは取って食べてはならない。それを取って食べるとき、あなたは必ず死ぬ(創世2:16-17)。」
神の命ずる戒めのある所には、契約の関係がある。人は、最初から、神との契約の中、従順さをもって神に従う者として造られた。人が、その従順さを失う時、契約は破られ、みことばの成就は止まる。それが死である。これは、モーセを通して結ばれた、神とイスラエルの民との契約でも同じ。
私は、きょう、あなたがたに対して天と地とを、証人に立てる。私は、いのちと死、祝福とのろいを、あなたの前に置く。あなたはいのちを選びなさい。あなたもあなたの子孫も生き、あなたの神、主を愛し、御声に聞き従い、主にすがるためだ。確かに主はあなたのいのちであり、あなたは主が、あなたの先祖、アブラハム、イサク、ヤコブに与えると誓われた地で、長く生きて住む(申命30:19-20)。
神の律法を守り行い、その御声に聞き従うとき、いのちである神のことばが実現して、彼らは祝福され、その土地で長く生きる。契約には土地が付きもの。アダムにはエデンの園、イスラエル人にはカナンの地。それは、契約の下にある者の受け継ぐ相続を表す。ただし、彼らが神に従順に従い、その戒めを行うならば、という条件つき。その条件のもと、アブラハムの時から約束されていたみことばが成就した。カナンに地に入ったイスラエル人は、そのほぼ中央にあるシェケムの近くに集まり、ゲリジム山には祝福を、エバル山にはのろいを置いて、みことばを読み、それを守り行うことを誓った。これらの山は、エデンの園での二つの木が神との契約を思い起こすためのものであったのと同じ役目を果たした。
肉に従う者は肉的なことをもっぱら考えますが、御霊に従う者は御霊に属することをひたすら考えます。肉の思いは死であり、御霊による思いは、いのちと平安です。というのは、肉の思いは神に対して反抗するものだからです。それは神の律法に服従しません。いや、服従できないのです(ローマ8:5-7)。
新約聖書における、このことばも、いのちと死の選択について述べている。それは、二つの生き方のこと。一つは、肉によって生きること、もう一つは霊によって生きること。最初の方は、善悪の知識の木、二番目の方は、いのちの木を表している。言い換えれば、私たちクリスチャンは、キリストにある新しい契約の下、心の庭にこれらの二つ木が持っている。アダムの時、結ばれた契約は今でも有効である。キリストを受け入れる以前においては、罪の結果、エデンの園から追放されていたので、この選択はなかったが、そこに戻された今、再びどちらかの木から取って食べることになった。
ですから、兄弟たち。私たちは、肉に従って歩む責任を、肉 に対して負ってはいません。もし肉に従って生きるなら、あ なたがたは死ぬのです。しかし、もし御霊によって、からだ の行いを殺すなら、あなたがたは生きるのです(12-13 節)。