いつも主にあって喜びなさい。もう一度言います。喜びなさい。...何も思い煩わないで、あらゆる場合に、感謝をもってささげる祈りと願いによって、あなたが たの願い事を神に知っていただきなさい(ピリピ4:4-6)。
人の生き方には二種類ある。一つは、いつも喜んで生きる生き方。もう一つは、いつも自分の必要や健康のことを心配しながら、生きる生き方。喜びは神の御前から出て来るものだが、思い煩いは、人が自分で持つもの。あなたが自分の判断や考え方で生きようとする時、心配と恐れが必ず来る。なぜなら、あなたは自分の力の不十分さをよく知っているからだ。しかし、あなたが全能で愛なる神様を見上げる時、神の平安があなたを包みこむようにしてあなたを守る。
そうすれば、人のすべての考えにまさる神の平安が、あなたがたの心と思いをキリスト・イエスにあって守ってくれます(7 節)。
心配や思い煩いは、あなたが自分のたましいの部分で持つもの。神の平安はそれとは次元の違うもので、神からあなたの霊を通して与えられるもの。したがって、あなたがこの平安の中に喜んで生きていたいと願うなら、霊を通して神の御声を聞き、それに従順に従う生き方をする必要がある。これが、いのちの木から取って食べる生き方のこと。逆に、善悪の知識の木から取って食べる方は、その霊のパイプを閉じて、自分のたましいにおける判断によって生きること。その時、あなたは心配と恐れのとりことなる。
肉の思いは死であり、御霊(霊)による思いは、いのちと平安です(ローマ8:6)。
肉(たましい)は、体と直接つながっているので、霊的死の中にある人のたましいは、もっぱら体を通して見る環境に従って生きていく。その現実の中で、自分の願うものをなんとかして手に入れようと、頭で計算し、四苦八苦しながら生きていく。それが肉にある者の姿。
子供のいなかったアブラハム(当時はまだアブラム)に、神様は、「わたしはあなたを大いなる国民とする」と言われた。それからかなりの年月が経って、彼は次のように言った。
神、主よ。私に何をお与えになるのですか。私には子がありません。私の家の相続人は、あのダマスコのエリエゼルになるのでしょうか。...私の家の奴隷が、私の跡取りになるでしょう(創世1 5:2 - 3)。
アブラムは、子供の与えられないままどんどん年を取っていく自分を見て、早く自分の跡取りになる者を確保しておくことが必要だと考えた。それは、どこから来た判断なのか。もし、彼がその判断によって行動した場合、神の約束はどうなるのか。肉の思いは死であり、みことばの成就を完全に無視したもの。この地上の現実のみによる、環境を見た判断である。
そこで、神様は彼にテントから外に出て(地上の現実から出て)、天の星を数えるように(霊の現実を考えるように)命じた。彼が天を見上げて、星を数えると、だんだんと地上の現実から脱出して、霊の現実に入って行った。その時、神様は言われた。
あなたの子孫はこのようになる(5節)。
この瞬間、アブラムは初めて信じた。つまり、自分の考えを捨て、神の考えと計画を受け入れた。これこそが、聖書の言う「知恵」であり、いのちの木である。
心を尽くして主に拠り頼め。 自分の悟りにたよるな(箴言3:5)。
知恵は、これを堅く握る者にはいのちの木である。 これをつかんでいる者は幸いである(18 節)。