肉の思いは死であり、御霊(霊)による思いは、いのちと平安です(ローマ8:6)。
これまで、人には二つの生き方があることを学んだが、それは次のようになる。
1)みことばの成就として生きる
2)自分の判断で生きる
これをエデンの園のアダムとエバに例えると、1)の方がいのちの木から取っ て食べる生き方、2)の方は、善悪の知識の木から取って食べる生き方。さら に、パウロの手紙にある表現によれば、次のようになる。
1)霊によって生きる
2)肉によって生きる
これは、人が、霊と魂と体から成っているという事実の上に立たない限り、理解されることはむずかしい。体は魂によってコントロールされ、魂は、霊によってコントロールされる。そして、霊は、神の霊によってコントロールされる。神の側から説明すれば、神様は、ご自分の思いや計画を、人の霊に語りかけ、人の霊は、魂に語りかけ、魂が体を支配して、行動として現れ、この世界において、神のみこころが実現されていく。それは、人が神のことばを行うことだけに意味があるのではなく、その行動を通して、神が働かれ、その御業が起きることに意味がある。これがみことばの成就の仕方。
ところが、いくら、神様があなたの霊を通して語りかけても、魂がそれに耳を傾けず、従順に従わなければ、みことばはそこで妨げられ、成就することはない。これは、あなたが肉によって歩んでいる時に起きる。つまり、魂が霊に聞かず、自分の判断で行動する時である。これが霊的な死であり、罪の本質である。この状態では、人は、霊的に無力となり、霊的な神の律法を守り行うことはできず、神に反逆して生きる。
というのは、肉の思いは神に対して反抗するものだからです。それは神の律法に服従しません。いや、服従できないのです。肉にある者は神を喜ばせることができません(7-8 節)。
キリストは、このようなみじめな状態に陥れられた人間たちを救うために来られた。彼はその生涯、いつも霊によって歩まれた。ところが、その周りは、肉によって歩む人々ばかり。したがって、福音書の至る所で、彼と肉に属する人々との対比と摩擦を見ることができる。例えば、イエス様が5000人に食をお与えになったあと、湖を渡って彼に着いて来た群衆に対して、彼は次のように言われた。
まことに、まことに、あなたがたに告げます。あなたがたがわたしを捜しているのは、しるしを見たからではなく、パンを食べて満腹したからです。なくなる食物のためではなく、いつまでも保ち、永遠のいのちに至る食物のために働きなさい。それこそ、人の子があなたがたに与えるものです。この人の子を父すなわち神が認証されたからです(ヨハネ6:26—27)。
一方では、ただ飯を食べたことに気を良くして、イエス様を、マナを与えたモーセのような預言者、あるいは、政治的メシアとして祭り上げようと彼に付き従って来た人々、もう一方では、神の子羊として殺されることによって人類を救うという、みことばの成就のために生きられたイエス様との対比が、この箇所の見どころ。何とかして、再びただで飯を食べようと、肉の計算によって試みてくる彼らに対して、ご自分が天から下ってきた、まことのパンであると語られるイエス様。生きている現実が違う。最終的に、彼らは、彼を非難し、彼から離れ去って行った。
こういうわけで、弟子たちのうちの多くの者が離れ去って行き、もはやイエスとともに歩かなかった(66 節)。