イタリア、ルネッサンス期に活躍し、「万能の天才」と謳われたレジェンドがいます。
レオナルド・ダ・ヴィンチ。
彼の名は世界に轟いていますが、『モナ・リザ』や『最後の晩餐』を画いた画家だということ以外、いったい何をやった偉人なのか、彼について知っているひとは、それほど多くないかもしれません。
画家のほかに、解剖学者、物理学者、発明家、建築、音楽、天文学、飛行機の航空力学や軍事技師、さらには式典の舞台芸術や演出まで、彼の肩書や実績は、枚挙にいとまがありません。
そもそも、彼の名は「ヴィンチ村のレオナルド」という意味で、近年では、彼をダ・ヴィンチと呼ぶより、レオナルドと呼ぶ風潮が本流です。
つまり、彼には苗字がなかった。
というのも、彼の父は裕福な公証人で、母は不倫関係にあった年若い農家の娘。
つまり、私生児だったのです。
レオナルドは、満足に学校に通うこともなく、あらゆるジャンルの学問を全て独学でおさめました。
彼は生涯に、絵画をたったの16点しか画いていませんが、膨大な手記、日記、覚書を残しています。
彼は、疑問をすぐさまメモし、それを調べ、解決したら、やはり文書にしたためる、という一連の作業を己のルーティンにしていました。
しかも残された遺稿のほとんどが、鏡文字。
鏡文字とは、書いた字を鏡に写して初めて読める文字のことです。
なぜ、そんな面倒なことをしたのか。
レオナルドは左利きだったので、そのほうが書きやすかった、当時は特許がなく、自分の発見や発明を盗まれないため、など、所説ありますが、真相はわかっていません。
レオナルドの特徴のひとつに、異常なまでに完璧主義者だった、というのがあります。
細部にこだわりすぎて、とにかく作品が完成しない。
そのため、30歳になる頃まで、生活は貧しく、彼に仕事を発注するスポンサーは減っていったのです。
それでも彼は、自分の流儀を変えませんでした。
のちに残る作品になると知っていたからこそ、自分が納得するまで手を入れたかったのです。
世界で最も有名な芸術家のひとり、レオナルド・ダ・ヴィンチが人生でつかんだ、明日へのyes!とは?