ピアノ音楽に革命をもたらした、ポーランドの天才作曲家がいます。
フレデリック・ショパン。
自身も優れたピアニストとしてその名をとどろかせたショパン。
彼が創る楽曲は、そのほとんどがピアノ曲で、これまでになかった美しく哀しい旋律や新しい表現形式にふちどられ、彼は、『ピアノの詩人』と呼ばれています。
華々しい功績の影で、そのわずか39年の生涯は、孤独と病魔との闘いでした。
さらに財力のない自分に不安を覚え、常にお金を稼がねばならないという強迫観念に追われていたと言われています。
1810年、ポーランドのワルシャワに生まれたショパンの、最初の大きな挫折は、20歳の時。
音楽の都、ウィーンでの生活が始まり、本格的な音楽家の道を歩もうとした矢先でした。
1830年11月。故郷ワルシャワで起こった、武装蜂起。
当時、ワルシャワ公国は、ロシア帝国の支配下にありました。
しかし、7月のパリ革命を契機に独立の機運が高まり、ついにふるさとは、戦場と化したのです。
愛するポーランドが、心配でならないショパン。
一緒にウィーンにやってきた親友のティトゥスは、兵士になる決意を胸に、すぐに帰国しますが、体の弱いショパンは、父から、こう告げられます。
「おまえは体が弱い、こっちに帰ってきてはダメだ。
おまえには一流の音楽家になる使命があるんだ。
神様からのギフトを持っている者は、それを使い、ひとびとを幸せにする責任がある。
こっちは、大丈夫だ。
ただ、ポーランドはいつだって、おまえの味方だ。
安心して、がんばりなさい」
ショパンは、悩み、自分を責めます。
故郷の愛する家族、大切な人々が苦しんでいるときに、自分は、ここにいていいのか。
さらに、誰も後ろ盾がいないウィーンでの孤独。
ウィーンの人々は、ワルシャワ蜂起をよく思っておらず、ポーランド出身のショパンへの態度は、冷たいものでした。
やがて、ショパンは心を病んでいきます。
それでも彼は、ピアノに向かいました。
ピアノだけが、彼にとって唯一のよりどころであり、生きる意味だったからです。
ピアノに一生を捧げたレジェンド、フレデリック・ショパンが人生でつかんだ、明日へのyes!とは?