関東大震災の帝都復興に尽力した、岩手県出身の政治家がいます。
後藤新平(ごとう・しんぺい)。
1923年9月1日に起きた関東大震災。後藤は66歳でした。
おりしも、第二次山本内閣の組閣の最中で、後藤は、内務大臣 兼 帝都復興院 総裁に任命されます。
首都東京、そして横浜を中心に多大な被害をもたらした、未曾有の地震と火災。
後藤は災害に強い、未来の帝都を実現するため、速やかに復興計画書を作成しました。
特に彼が重要視したのが、道路整備と緑地建設。
東京から放射線状に延びる道路と、環状線として機能する道。
南北軸を昭和通り、東西軸は靖国通り、環状線の基本には明治通りを配したのです。
環境の保全や避難所の役割も果たす緑地政策では、隅田公園、浜町公園などを建設。
現在の東京の基礎は、後藤が造ったといっても過言ではありません。
岩手県奥州市立後藤新平記念館のホームぺージでは、彼が演説した肉声を聴くことができます。
演説で力説しているのは「政治の倫理化」。
腐敗した政治を一掃し、日々、不安や不満を感じる国民のために、精一杯尽くそうとする、彼の倫理観が前面に押し出されています。
この記念館には、関東大震災当日と思われる直筆のメモ書きや、復興概念図が展示され、当時の切迫した空気感が、胸に迫ってきます。
後藤の名言にこんな言葉があります。
「よく聞け。金を残して死ぬ者は下、仕事を残して死ぬ者は中、人を残して死ぬ者は上だ。よく覚えておけ」
後年、彼は、ひとを育てることに心を砕きました。
自分が一生のうちに培った、金、地位、知識や知恵、それらはお墓の中に持っていっても仕方がない。
ならば、後進に伝えよう、譲ろう。
それが後藤の提案であり、信念でした。
ひとの人生ははかない。
もし、それを有意義なものにできるとしたら、後の世のために、何が残せるかだと考えたのです。
感染症対策に功績を残した医師であり、復興の神様でもあった、唯一無二の政治家、後藤新平が人生でつかんだ、明日へのyes!とは?