女子教育に一生を捧げた、花巻出身のレジェンドがいます。
淵澤能恵(ふちざわ・のえ)。
東北の寒村に生まれた彼女は、養女に出され、さびしい幼少期を過ごします。
最初の転機は、明治12年、29歳のとき。
鉱山技師のパーセルに女中として仕えていましたが、パーセル一家の帰国に同行して、ロサンゼルスにおもむくことになったのです。
日本に帰ってからは、同志社大学で学び、その後、東洋英和、下関洗心女学校、福岡英和女学校など、日本各地で女子教育発展に尽くしました。
次の転機は、明治38年、55歳のとき。
海を渡り、韓国で女学校創立に邁進したのです。
平均寿命が今ほど高くなかった時代。
55歳の女性が韓国の地で新しい挑戦をするというのは、どれほどの覚悟と勇気が必要だったことでしょう。
淵澤は、見事やり抜きました。
日韓の橋渡しを成し遂げ、彼女が創設に関わった、首都ソウルの「淑明学園」の「淑明女子大学」は、世界に名立たる名門大学としてその名を馳せ、優秀な人材を輩出し続けています。
女性蔑視や人種差別が激しかった時代に、逆風をものともせず、立ち向かった淵澤能恵。
何が彼女を、そこまで駆り立てたのでしょうか。
晩年、彼女の印象を尋ねると、みな一様にこう言ったそうです。
「いつも、ニッコリ笑って、よく来たねえと抱きしめてくれました」
淵澤が目指したのは、優しい力。
暴力でも権力でもなく、優しさでひとや世界を変えていきたい。
そんな願いが、今も全国、そして世界中に息づいているのです。
岩手県が生んだ女子教育の聖母マリア、淵澤能恵が人生でつかんだ、明日へのyes!とは?