yes!~明日への便り~ presented by ホクトプレミアム 霜降りひらたけ

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風も、雨も、自ら鳴っているのではありません。 何かに当たり、何かにはじかれ、音を奏でているのです。 誰かに出会い、誰かと別れ、私たちは日常という音を、共鳴させあっています。 YESとNOの狭間で。 今週、あなたは、自分に言いましたか? YES!ささやかに、小文字で、yes!明日への希望の風に吹かれながら、自分にyes!と言ったひとたちの物語をお聴きください。

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447 episodes

第447話『心の中心を見つける』-【岩手にまつわるレジェンド篇】柔道家 三船久蔵-

現在の岩手県久慈市出身の「柔道の神様」がいます。 三船久蔵(みふね・きゅうぞう)。 身長は160センチに満たず、体重は50キロ半ば。 圧倒的に不利な体格で、講道館柔道の最高位、十段を授けられたレジェンドです。 柔道の長い歴史の中、十段を取得したのは現在15名しかいません。 ちなみに十段の帯は、黒帯の上、赤帯です。 最近では3年前、1992年のバルセロナオリンピック、男子71キロ級で金メダルをとった古賀稔彦(こが・としひこ)が、数々の偉業をたたえられ、九段に昇格し、話題になりました。 53歳で亡くなる、前日のことでした。 九段、十段の赤帯は、ただ単に強さだけではなく、競技の普及や後進の育成など、柔道界への多大なる貢献が、昇段の決め手となります。 三船久蔵は、小柄な体格ながら、新しい技を次々とあみだし、柔道というフレームを大きく伸ばし、拡大したのです。 故郷の久慈市には、三船十段記念館があり、「若き日の三船久蔵」「三船久蔵と講道館」「三船と将棋」「三船と書道」というテーマに沿ってパネルが展示されています。 さらに、圧巻は、彼が考案した「空気投げ」の貴重な映像。 大きな相手をうまくさばき、タイミングを崩し、気がつけば相手が転がっているという、三船の必殺技です。 資料館の隣には、柔道場も併設されており、彼の精神を受け継ぐ若き道場生が稽古にやってきます。 三船には、流儀がありました。 「大切なのは、心の中心をブレないようにすること」 そのために彼は、65年間、たったの一日も稽古を休まなかったと言います。 心の中心がブレていなければ、体重移動しても、ふらふらとよろけても、すぐに体勢を立て直すことができる。 彼の流儀は、技ではなく、心の持ち方にあったのです。 三船は、後輩たちに言いました。 「相手に勝とうと思うと、相手の心が自分の中心を乱す。 ほんとうの相手は、自分の中にしかいない」 名人という称号を与えられた賢人・三船久蔵が人生でつかんだ、明日へのyes!とは?

11m
Mar 23, 2024
第446話『優しい力で世界を変える』-【岩手にまつわるレジェンド篇】教育者 淵澤能恵-

女子教育に一生を捧げた、花巻出身のレジェンドがいます。 淵澤能恵(ふちざわ・のえ)。 東北の寒村に生まれた彼女は、養女に出され、さびしい幼少期を過ごします。 最初の転機は、明治12年、29歳のとき。 鉱山技師のパーセルに女中として仕えていましたが、パーセル一家の帰国に同行して、ロサンゼルスにおもむくことになったのです。 日本に帰ってからは、同志社大学で学び、その後、東洋英和、下関洗心女学校、福岡英和女学校など、日本各地で女子教育発展に尽くしました。 次の転機は、明治38年、55歳のとき。 海を渡り、韓国で女学校創立に邁進したのです。 平均寿命が今ほど高くなかった時代。 55歳の女性が韓国の地で新しい挑戦をするというのは、どれほどの覚悟と勇気が必要だったことでしょう。 淵澤は、見事やり抜きました。 日韓の橋渡しを成し遂げ、彼女が創設に関わった、首都ソウルの「淑明学園」の「淑明女子大学」は、世界に名立たる名門大学としてその名を馳せ、優秀な人材を輩出し続けています。 女性蔑視や人種差別が激しかった時代に、逆風をものともせず、立ち向かった淵澤能恵。 何が彼女を、そこまで駆り立てたのでしょうか。 晩年、彼女の印象を尋ねると、みな一様にこう言ったそうです。 「いつも、ニッコリ笑って、よく来たねえと抱きしめてくれました」 淵澤が目指したのは、優しい力。 暴力でも権力でもなく、優しさでひとや世界を変えていきたい。 そんな願いが、今も全国、そして世界中に息づいているのです。 岩手県が生んだ女子教育の聖母マリア、淵澤能恵が人生でつかんだ、明日へのyes!とは?

11m
Mar 16, 2024
第445話『後の世を見据える』-【岩手にまつわるレジェンド篇】政治家 後藤新平-

関東大震災の帝都復興に尽力した、岩手県出身の政治家がいます。 後藤新平(ごとう・しんぺい)。 1923年9月1日に起きた関東大震災。後藤は66歳でした。 おりしも、第二次山本内閣の組閣の最中で、後藤は、内務大臣 兼 帝都復興院 総裁に任命されます。 首都東京、そして横浜を中心に多大な被害をもたらした、未曾有の地震と火災。 後藤は災害に強い、未来の帝都を実現するため、速やかに復興計画書を作成しました。 特に彼が重要視したのが、道路整備と緑地建設。 東京から放射線状に延びる道路と、環状線として機能する道。 南北軸を昭和通り、東西軸は靖国通り、環状線の基本には明治通りを配したのです。 環境の保全や避難所の役割も果たす緑地政策では、隅田公園、浜町公園などを建設。 現在の東京の基礎は、後藤が造ったといっても過言ではありません。 岩手県奥州市立後藤新平記念館のホームぺージでは、彼が演説した肉声を聴くことができます。 演説で力説しているのは「政治の倫理化」。 腐敗した政治を一掃し、日々、不安や不満を感じる国民のために、精一杯尽くそうとする、彼の倫理観が前面に押し出されています。 この記念館には、関東大震災当日と思われる直筆のメモ書きや、復興概念図が展示され、当時の切迫した空気感が、胸に迫ってきます。 後藤の名言にこんな言葉があります。 「よく聞け。金を残して死ぬ者は下、仕事を残して死ぬ者は中、人を残して死ぬ者は上だ。よく覚えておけ」 後年、彼は、ひとを育てることに心を砕きました。 自分が一生のうちに培った、金、地位、知識や知恵、それらはお墓の中に持っていっても仕方がない。 ならば、後進に伝えよう、譲ろう。 それが後藤の提案であり、信念でした。 ひとの人生ははかない。 もし、それを有意義なものにできるとしたら、後の世のために、何が残せるかだと考えたのです。 感染症対策に功績を残した医師であり、復興の神様でもあった、唯一無二の政治家、後藤新平が人生でつかんだ、明日へのyes!とは?

13m
Mar 09, 2024
第444話『理不尽に負けない』-【岩手にまつわるレジェンド篇】歌人 石川啄木-

岩手県に生まれた、望郷の歌人がいます。 石川啄木(いしかわ・たくぼく)。 わずか26年の生涯でしたが、彼が詠んだ歌は、今も多くのひとに読み継がれています。 歌集『一握の砂』『悲しき玩具』が発表されてから110年以上が経ちますが、彼の歌が今もなお、私たちの心を揺さぶるのは、なぜでしょうか。 はたらけど はたらけど猶(なほ)わが生活(くらし)楽にならざり ぢっと手を見る この有名な歌が示すように、啄木は、従来の短歌にはない、ある2つの挑戦を行いました。 ひとつは、3行、分かち書き。 はたらけどで、改行。 はたらけど猶わが生活楽にならざりで、改行。 『一握の砂』『悲しき玩具』は、全ての歌が、3行で綴られているのです。 これは、1910年に発表された、土岐哀果(とき・あいか)のローマ字歌集『NAKIWARAI』に影響を受けたという説もありますが、3行に区切られることで、啄木の思い、息遣いが聴こえてきます。 もうひとつの試みが、従来の短歌が花鳥風月を題材にしたものばかりなのに対して、啄木は、日常の生活や、日々感じる哀しみや不満を歌にしたことです。 彼が、自由に歌を詠みたいと考えた背景には、彼を取り巻く、理不尽な境遇があります。 啄木は、『歌のいろ/\』で、こう記しました。 「私自身が現在に於(おい)て意のまゝに改め得るもの、改め得べきものは、僅(わずか)にこの机の上の置時計や硯箱やインキ壺の位置とそれから歌ぐらゐ(い)なものである」 生まれながらの虚弱体質。貧困。 故郷を追われ、挙句の果てには、せっかく勤めていた小学校や新聞社が火事で焼けてしまう。 何一つ、思い通りにいかない人生。 理不尽に対抗する手段が、歌でした。 歌を自由に詠むことは、彼にとって、唯一の抵抗だったのかもしれません。 孤高の天才歌人、石川啄木が人生でつかんだ、明日へのyes!とは?

11m
Mar 02, 2024
第443話『孤独を恐れない』-【京都にまつわるレジェンド篇】数学者 森毅-

京都大学の名物教授で、数多くのエッセイを書いた文筆家としても有名な、数学者がいます。 森毅(もり・つよし)。 東京大学数学科を卒業後、北海道大学の助手になり、29歳で京都大学で教鞭をとってから34年間、独特の語り口やユーモアあふれる授業で人気を博しました。 63歳で大学を退官後、多くの大学からオファーを受けましたが、全て断り、フリーランスとしてエッセイや評論を書き、積極的にマスコミにも顔を出し、数学の楽しさ、人生のよりよき生き方を指南。 多くのファンに愛されました。 森が提唱したものに、『人生20年説』というのがあります。 まずは過去の遺産で生きるのはやめよう、20年前の自分は、赤の他人。 そう考えれば、人生が80年とすれば、ひとは、4回生まれ変わることができる。 これは楽しい。ワクワクする。 第一の人生でつまずいても、大丈夫。 次の20年をまっさらな気持ちで生きればいい。 60歳を迎えたとき、森が下したのは、大学を去り、自由な大海原に漕ぎ出そう、という決断でした。 そしてそれを支えているのは、あえて孤独を恐れない、ということ。 京都の東山三条に、古い宿屋がありました。 そこには、年老いた犬が一頭いました。 犬は、いつもひとりで悠々と道を渡ります。 旧国道一号線。 どんなにクルマが通っても、急がず、動じず、堂々と渡ります。 その様子を見た森は、これだと思ったのです。 「みんなで渡れば怖くない」ではなく、「ひとりで渡れば危なくない」じゃないか、と。 たったひとりの、犬。 彼を見たドライバーは、クルマを停め、微笑んで彼が道を渡るのを見届けます。 これがもし、何匹もの犬が、おどおど、ビクビクして渡っていたら…。 ドライバーは、つい、クラクションを鳴らしてしまうかもしれません。 ひとりだから、認められる。ひとりだから、カッコいい。 おのれの生き方でよりよい人生を指南した賢人、森毅が人生でつかんだ、明日へのyes!とは?

11m
Feb 24, 2024
第442話『責任感を持つことで成長する』-【京都にまつわるレジェンド篇】女優 高峰秀子-

今年、生誕100年を迎える、伝説の大女優がいます。 高峰秀子(たかみね・ひでこ)。 1924年3月27日生まれの彼女の「高峰秀子生誕100年プロジェクト」は、昨年10月から始まり、今年もさまざまな企画が目白押しです。 彼女が愛した「きもの展」、エッセイでも綴られた、美学をひもとく展示や写真展。 もちろん、出演した映画の上映会も多数予定されています。 戦前の無声映画の時代、5歳で銀幕デビューを果たしてから、およそ50年間、300本以上の作品に出た高峰は、今も多くのファンを魅了してやみません。 また、エッセイストとして、多くの本を執筆。 軽妙で含羞と含蓄があふれる筆運びは、時代に色あせることなく、健在です。 4歳のとき、結核で母を亡くし、父の妹に養子に出された高峰。 5歳で、いきなり映画の世界に放り込まれ、以来、自分が役者としての素養があるやなしやの自省するいとまもなく、ひたすら走り続けてきたのです。 5歳のとき、いきなり参加した映画のオーディションに合格。 お金を出してでも我が子を映画に出したいというお金持ちが多い中、高峰の出演作は絶えません。 男の子の役までも、頭を丸刈りにされて依頼がきてしまう。 養母は、まわりからずいぶん嫌味を言われ、いじめられたといいます。 子役の役者に多額の出演料がもらえることはなく、暮らしは、貧しく、質素。 養父は全国を飛び歩く興行師、養母は内職をしていました。 そんな中、京都の賀茂川のほとりから撮影所に通うのは楽しかったと、エッセイに書いています。 撮影所では、駄々をこね、お菓子をもらったり、多くの大人たちと遊び、誰にでも可愛がられました。 ほとんど学校にも行けず、眠い目をこすりながら撮影所に通う日々。 そんな幼い高峰の心には、自分を育ててくれている母に、何か役に立つことをしたいという思いが、ささやかに、でも確実に芽生えていったのです。 戦前戦後を駆け抜けたレジェンド・高峰秀子が人生でつかんだ、明日へのyes!とは?

11m
Feb 17, 2024
第441話『自分の好奇心を信じる』-【京都にまつわるレジェンド篇】映画監督 伊丹十三-

2022年の『朝日新聞 be on Saturday』5月14日号の「今こそ!見たい日本映画の巨匠」読者ランキングで、黒澤明、小津安二郎を抑え、1位に輝いたレジェンドがいます。 伊丹十三(いたみ・じゅうぞう)。 『お葬式』『タンポポ』『マルサの女』など、独特のユーモアやペーソスで社会問題をくるんだ傑作を、世に送り出しました。 伊丹が映画で大切にしたこと、それは、次の3つでした。 「びっくりした」「面白い」「誰にでもわかる」。 世の中で何が流行っているかには、全く関心を持たず、常に「自分の好奇心」というアンテナだけを信じて企画を考え、細部にこだわり抜き、普遍的なエンターテインメントに仕上げたのです。 51歳にして、初の監督デビュー作となった映画『お葬式』。 妻・宮本信子の父親の葬儀を伊丹が仕切ることになった体験を反映しています。 突然の肉親の死に翻弄される夫婦の3日間を描いたこの作品で、いきなり日本アカデミー賞最優秀作品賞など、多くの賞を獲得しました。 偉大な映画監督・伊丹万作(いたみ・まんさく)を父に持つ十三は、自分は映画監督になることはないと思っていましたが、お葬式の火葬場で、立ち昇る煙を見たとき、ふと自分が小津安二郎の映画の中にいるような錯覚に陥りました。 そのとき「あ、これ、映画になるかもしれない…」、そう思ったと後に語っています。 伊丹の監督ぶりは、決して声を荒げたり、上から圧をかけるようなものではなく、ただひたすら「はい、もう一回」「うん、そうだな、もう一回やってみましょう」とダメ出しを続けたのだといいます。 自分のイメージが明確にあり、揺るぎないビジョンが存在する。 それを支えているものが、好奇心というアンテナにひっかかった、日々の何気ない日常の中にある、人間のささいな行動やしぐさ。 伊丹は、常に自分の好奇心を羅針盤にして、創作に向き合ってきたのです。 映画監督のみならず、俳優、作家、イラストレーターなど、マルチな才能で時代を駆け抜けた賢人・伊丹十三が人生でつかんだ、明日へのyes!とは?

11m
Feb 10, 2024
第440話『心に物語を持つ』-【京都にまつわるレジェンド篇】紫式部-

生涯でただ一つの長編小説『源氏物語』を書いた、平安時代中期の歌人がいます。 紫式部(むらさきしきぶ)。 紫式部は、本名ではなく、父・藤原為時(ふじわらのためとき)が式部省の役人だったことに由来する、いわばペンネーム。 平安時代は、女性の名前が正確に記録されることはなく、当初は、藤原氏出身ということで「藤式部(とうのしきぶ)」と呼ばれていました。 それがどのような経緯で紫式部になったのかは、諸説あります。 生まれ育った京都の紫野からとった、という説、藤の花の色から、という説、そして『源氏物語』の紫の上からつけられた、という説など、さまざまです。 世界最古の長編小説と言われている、『源氏物語』。 その唯一無二の作品は、名立たる有名作家に訳されてきました。 「紫式部は私の12才の時からの恩師である」と語った与謝野晶子。 円地文子(えんち・ふみこ)は、現代語訳をするためだけに、専用のアパートを借り、5年半かけて完成させました。 瀬戸内寂聴もまた、『源氏物語』を訳するためにマンションを購入、人生を賭けて対峙したのです。 近年では、角田光代さんによる現代語訳も大きな話題となりました。 海外でも早くから翻訳が進み、1966年には、日本人として初めて、ユネスコの「偉人年祭表」に加えられました。 なぜ、それほどまでに人は『源氏物語』に魅せられるのでしょうか。 およそ500人もが登場する、全54帖の大長編では、天皇家に生まれた光源氏の恋愛模様を中心に、宮廷でのさまざまな出来事、権力闘争が描かれます。 性格の違う女性を描き分ける筆力はもちろん、光源氏の哀しさや、人生に対する深い洞察は、千年の時を越えて、私たちの心の湖に大きな石を投げるように、幾重もの波紋を呼び起すのです。 平安時代、文学作品を書けるのは、御后や子どもたちが暮らす後宮に勤める、女房と呼ばれた女性でした。 紫式部が、女房文学の頂点に立つことができた理由とは? そして、人生でつかんだ、明日へのyes!とは?

12m
Feb 03, 2024
第439話『特別編・長野にyes!を探す旅』

今週は、特別編。 私、長塚圭史が、長野県の「ホクト小諸きのこセンター」に、yes!を探す旅に出かけたルポルタージュです。 そこには、想像を超える工場の風景や、きのこを愛する熱い人たちのドラマがありました。

23m
Jan 27, 2024
第438話『目線を低く保つ』-【長野県にまつわるレジェンド篇】白土三平-

常に弱者の視点に立ち、『サスケ』『カムイ伝』などの名作を遺した、漫画家のレジェンドがいます。 白土三平(しらと・さんぺい)。 白土にとって、長野県上田市真田町で暮らした少年時代は、自身の稀有な作風の原点だったと、のちに回想しています。 光文社の漫画雑誌『少年』に、1961年から1966年まで連載され、アニメ化もされた『サスケ』。 江戸時代、甲賀流の少年忍者・サスケが、さまざまな刺客と闘いながら成長していく様を描いた傑作ですが、絵柄の子どもらしさとは対照的に、登場人物たちは、理不尽に、そして残酷に切られ、死んでいきます。 そこに救いはなく、哀しさと寄る辺なさだけが余韻として残るのです。 彼のライフワークになった『カムイ伝』は、階級差別を受ける出自を持つ主人公が、冷酷な社会に対峙しながら、自然の猛威にも翻弄され、「食うために生きぬく」姿を描いた、名作です。 白土は漫画の中に、当時では珍しい、解説を差し込みました。 少年たちは、それを読み、枯れ葉を集め、雲隠れの術を真似たのです。 忍者たちが切り合った場面を画いた後、どんなふうに刀を使ったか、スローモーションで見てみましょうと、刀さばきも解説しました。 戦時下、中学生の時に都会から長野に疎開してきた、白土少年。 彼の父が、「日本プロレタリア美術家同盟」に属する画家だったことも重なり、中学での扱いは決して優しいものではありませんでした。 配給の長靴はもらえず、彼は片道2時間かかる雪道を、藁草履で通い続けたのです。 さらに白土少年を驚かせたのは、過酷な自然との闘い。 イノシシを解体する様子を間近で見ました。 ひとは、平気で差別し、階級をつくる。 ひとは、生きるために、獣をさばき、野山をめぐる。 この体験は、彼の心に深く刻まれ、生涯、忘れることはありませんでした。 戦国の世の無常を描いた、唯一無二の漫画家・白土三平が人生でつかんだ、明日へのyes!とは?

11m
Jan 20, 2024
第437話『枠をはみだす』-【長野県にまつわるレジェンド篇】越路吹雪-

昭和の音楽界を華やかに彩った「シャンソンの女王」がいます。 越路吹雪(こしじ・ふぶき)。 現在、NHKの朝の連続テレビ小説のモデルと言われる、「ブギの女王」・笠置シヅ子(かさぎ・しずこ)の、10歳年下。 宝塚音楽歌劇学校に入れなかった笠置とは違い、越路は、長野県飯山高等女学校在学中に、宝塚に合格。 男役トップスターとして、戦中、戦後を駆け抜けました。 しかし、入団当初、そのふるまいは、破天荒で規格外。 同期だった、美貌の月丘夢路、才能の乙羽信子に対抗するかのように、喫煙、飲酒に、門限破り。 ついたあだ名は「不良少女」だったのです。 トップに登り詰める欲もなく、ただ淡々と日々を過ごしていた越路。 ただ、ダンスだけは大好きで、レッスン場で人知れず練習していたと言われています。 背が高い彼女は男役として舞台に立ちますが、最初は目立つ存在ではありませんでした。 転機は、19歳のときの舞台『航空母艦』。 水兵役の彼女が甲板で浪花節『清水次郎長』をうなるシーン。 美しいハイトーンではなく、いきなり渋い浪花節。 客席はどよめきから拍手に、やがて大喝采に変ったのです。 越路の存在を世間に知らしめるワンシーン。 実は、この舞台のために、彼女は浪曲師・広沢虎造のレコードを擦り切れるまで聞き込んでいたのです。 他の人と比べると、足りないものばかりが目に入る。 そんなとき、彼女がとった行動は、「枠をはみだす」ということでした。 真正面からぶつかっていてはかなわないのであれば、自分は自分のやりかたで、努力し、学んでいく。 そうして彼女は、トップスターへの階段を上って行ったのです。 『愛の讃歌』で知られる唯一無二のエンターテイナー、越路吹雪が人生でつかんだ、明日へのyes!とは?

11m
Jan 13, 2024
第436話『歩みをとめない』-【長野県にまつわるレジェンド篇】永六輔-

坂本九が歌い、一世を風靡した名曲『上を向いて歩こう』を作詞したレジェンドがいます。 永六輔(えい・ろくすけ)。 『上を向いて歩こう』は、1961年、NHKの音楽バラエティ番組『夢であいましょう』の今月の歌で初披露するや、またたく間に大ヒット。 3か月連続ヒットチャート1位を記録。 さらに『SUKIYAKI(スキヤキ)』とタイトルを変え、アメリカ、ビルボードのヒットチャートで3週連続1位の快挙に輝きました。 時は安保闘争真っただ中。 永は、放送作家の激務の合間をかいくぐって、デモに参加します。 あまりに熱心にデモに参加するので、テレビ局のディレクターから、「キミは、仕事とデモ、どっちが大事なんだ?」と責められます。 永は、「デモです」と即答。 そのまま番組を降りたという逸話が残されています。 終戦後、目覚ましい復興を遂げた日本でしたが、再び、戦争の影が忍び寄っているのではないか、永は、繊細な感性で怖れを感じたのです。 終生、反戦、反権力を訴えた彼は、「本当に戦争に関わるのはよそう。戦争を手伝うのもよそう。どっかの戦争を支持するのもよそう。それだけを言い続けていきたい」と話しました。 『上を向いて歩こう』の歌詞には、彼の二つの強い思いが込められているように感じられます。 ひとつは、安保闘争に敗れた悔しさ、怒り、それでも生きていこうとする決意。 もうひとつは、戦時中の幼少期、疎開先の長野県で感じた思いです。 親元を離れ、ひとりで通学する夜道。 ひとりぼっちが身に沁みます。 さびしい、つらい。 こらえても、後から後から涙がこぼれてくる。 涙を止めることができないのなら、せめて、上を向いて歩こう。 それはどこか、永の人生観にも通じます。 彼の優しさは、涙を流すなとは言いません。 人生は理不尽で、思うようにならない苦難の連続。 唯一、それに打ち勝つには、歩くのをやめないこと。 涙がこぼれないように、上を向いて。 軽妙な語り口と鋭い視点で多くのひとを魅了した、唯一無二の賢人、永六輔が人生でつかんだ、明日へのyes!とは?

12m
Jan 06, 2024
第435話『自分を否定して、新しい自分に出会う』-【音楽家のレジェンド篇】ルートヴィヒ・ヴァン・ベートーヴェン-

年末の風物詩、通称『第九』を作曲した、音楽家のレジェンドがいます。 ルートヴィヒ・ヴァン・ベートーヴェン。 交響曲第9番がウィーンで初演されたとき、ベートーヴェンは54歳で、このとき彼の耳は、ほとんど聴こえなかったと言われています。 初演のときに曲が終わっても気づかず、隣の女性が客席を振り向かせたとき、聴衆が立ち上がり、激しく拍手をしている姿を見て、初めてこの曲の成功を確信しました。 第九は、新しい試みに満ちています。 70分にも及ぶ演奏時間の長さは、当時、破格でした。 のちに、CDの最長録音時間がおよそ74分に設定されたのは、この第九を一枚に収めるためだったという説があります。 これまで使われていなかった打楽器、シンバルやトライアングルなどの導入、さらに最も世間を驚かせたのは、第4楽章の合唱です。 4人の独唱と混声合唱団が歌うのは、ドイツの詩人、シラーの『歓喜に寄せて』。 しかし、歌いはじめのフレーズは、ベートーヴェンが自ら作詞したものなのです。 「おお、友よ!この音色ではない! そうではなくて、我々をもっと心地よい世界に導く、喜びにあふれた音色に、心をゆだねよう!」 そうではない、という否定から入る歌詞。 実は、第4楽章の合唱に入る前にも、ベートーヴェンは、第1楽章から第3楽章までの全ての主題を否定します。 自らが奏でた調べを全否定してからの、歓喜の歌。 最後にして集大成の、ベートーヴェン、交響曲第9番がなぜ全世界のひとに愛され続けるのか。 そこには、これまでの自分を否定し、さらなる高みを目指す戦いの軌跡があったのです。 56歳でこの世を去った音楽界の至宝、ルートヴィヒ・ヴァン・ベートーヴェンが人生でつかんだ、明日へのyes!とは?

11m
Dec 30, 2023
第434話『ぶれない軸を持つ』-【音楽家のレジェンド篇】セルゲイ・ラフマニノフ-

ロマン派音楽を大きく飛躍、大成した、ロシアの音楽家がいます。 セルゲイ・ラフマニノフ。 ラフマニノフと言えば、2014年のソチ・オリンピックで、浅田真央のフリー演技で流れた楽曲『ピアノ協奏曲第2番』を思い出すひとがいるかもしれません。 前回大会のバンクーバーで、オリンピック史上女子初となる、3回転アクセルを成功させ、堂々の銀メダル。 今大会こそは金メダルだと、日本の期待を一身に背負ったオリンピックでした。 しかし、ショートは、まさかの16位。 失意の中、フリーでどんな演技を見せるのか。 ほぼノーミスの圧巻の演技は、ラフマニノフと共にありました。 今年生誕150年を迎えるロシアのレジェンドは、生前、非難にさらされることの多い作曲家でした。 天才の呼び声が高かったラフマニノフは、22歳のときに、自分の人生を賭けた大作に挑みます。 『交響曲第1番 二短調』。 2年後の24歳のとき、ペテルブルクで初演されますが、これが、記録的な大失敗に終わったのです。 奇しくも、浅田真央がソチ・オリンピックに出場したのが、24歳のときでした。 ラフマニノフが魂を込めて作った曲は、批評家から酷評され、コンサート会場では、途中で席を立つ者までいました。 一説には、指揮をしたグラズノフの失態が原因と言われていますが、全ての非難の矛先は、作曲者に向かいます。 この『交響曲第1番』は、ラフマニノフが生きている間は、二度と演奏されませんでした。 この失敗で彼は、神経衰弱に陥り、作曲ができなくなってしまいます。 ピアノに向かうと、手がふるえ、譜面を見ると、吐いてしまう。 そんな彼を必死に励ましたのが、16歳年上のロシアの文豪、アントン・チェーホフでした。 チェーホフは、手紙に書きました。 「言いたいやつには、言わせておけばいい。 私が書いた『かもめ』も初演はさんざんなものだった。 でも、2年後は大絶賛。 わからんもんだよ 世間なんて。全ての軸は自分の中に持てばいい」 挫折を繰り返しながら名曲を世に送り出したレジェンド、セルゲイ・ラフマニノフが人生でつかんだ、明日へのyes!とは?

10m
Dec 23, 2023
第433話『人生にyesを』-【音楽家のレジェンド篇】ザ・ビートルズ-

今年11月2日、『ナウ・アンド・ゼン』という最後の新曲を世界同時発売した、伝説のロックバンドがあります。 ザ・ビートルズ。 オフィシャル・ミュージック・ビデオは、カセットデッキに、あるテープがセットされるところから始まります。 このカセットテープに、40歳のとき銃弾に倒れた、ジョン・レノンの歌声が録音されていたのです。 最新のAI技術を駆使し、デモテープから歌声だけを抽出。 そこに81歳のポール・マッカートニー、83歳のリンゴ・スターの声を重ね、58歳で亡くなったジョージ・ハリスンの歌声と演奏を加えました。 「時々、キミがいなくて、さみしい」 「時々、ボクたちは、スタート地点に戻らなくてはいけない」 そう歌うジョンの声はせつなく響きます。 この新曲の裏ジャケットに使われた時計のエピソードが話題を呼んでいます。 ジョージ・ハリスンの妻、オリヴィアの話。 それは…昔、ジョージが時計店に入ったときのこと。 壁にかかっていた時計に目を止めます。 家をモチーフにした壁掛け時計には、はめこまれたアルファベットで、「NOW」と「THEN」の文字がありました。 ひと目でそれが気に入ったジョージは、壁から時計をはずしてもらい、購入したのです。 彼は自宅にロシア風の小屋を建て、そこに時計を飾りました。 なんと25年間、時計はそこで時を刻んでいたのです。 ジョージ亡きあと、妻のオリヴィアは、ふと思い立ち、その時計を綺麗にして、暖炉の上に置きました。 とそこへ、一本の電話がかかってきたのです。 ポール・マッカートニーからでした。 「カセットテープに録音された歌があるんだけど」 それが…『ナウ・アンド・ゼン』でした。 そのとき今は亡き、ジョージ・ハリスンも、今回の新曲リリースに参加していたのです。 今も伝説を創り続けるロックバンド、ザ・ビートルズが人生でつかんだ、明日へのyes!とは?

10m
Dec 16, 2023
第432話『絶望は気づきの時間』-【音楽家のレジェンド篇】フレデリック・ショパン-

ピアノ音楽に革命をもたらした、ポーランドの天才作曲家がいます。 フレデリック・ショパン。 自身も優れたピアニストとしてその名をとどろかせたショパン。 彼が創る楽曲は、そのほとんどがピアノ曲で、これまでになかった美しく哀しい旋律や新しい表現形式にふちどられ、彼は、『ピアノの詩人』と呼ばれています。 華々しい功績の影で、そのわずか39年の生涯は、孤独と病魔との闘いでした。 さらに財力のない自分に不安を覚え、常にお金を稼がねばならないという強迫観念に追われていたと言われています。 1810年、ポーランドのワルシャワに生まれたショパンの、最初の大きな挫折は、20歳の時。 音楽の都、ウィーンでの生活が始まり、本格的な音楽家の道を歩もうとした矢先でした。 1830年11月。故郷ワルシャワで起こった、武装蜂起。 当時、ワルシャワ公国は、ロシア帝国の支配下にありました。 しかし、7月のパリ革命を契機に独立の機運が高まり、ついにふるさとは、戦場と化したのです。 愛するポーランドが、心配でならないショパン。 一緒にウィーンにやってきた親友のティトゥスは、兵士になる決意を胸に、すぐに帰国しますが、体の弱いショパンは、父から、こう告げられます。 「おまえは体が弱い、こっちに帰ってきてはダメだ。 おまえには一流の音楽家になる使命があるんだ。 神様からのギフトを持っている者は、それを使い、ひとびとを幸せにする責任がある。 こっちは、大丈夫だ。 ただ、ポーランドはいつだって、おまえの味方だ。 安心して、がんばりなさい」 ショパンは、悩み、自分を責めます。 故郷の愛する家族、大切な人々が苦しんでいるときに、自分は、ここにいていいのか。 さらに、誰も後ろ盾がいないウィーンでの孤独。 ウィーンの人々は、ワルシャワ蜂起をよく思っておらず、ポーランド出身のショパンへの態度は、冷たいものでした。 やがて、ショパンは心を病んでいきます。 それでも彼は、ピアノに向かいました。 ピアノだけが、彼にとって唯一のよりどころであり、生きる意味だったからです。 ピアノに一生を捧げたレジェンド、フレデリック・ショパンが人生でつかんだ、明日へのyes!とは?

11m
Dec 09, 2023
第431話『スペシャリストにならない』-【音楽家のレジェンド篇】クロード・ドビュッシー-

印象派、象徴派と言われ、独自の世界観を切り開いた、フランスの作曲家がいます。 クロード・ドビュッシー。 今年3月に亡くなった坂本龍一は、ドビュッシーを敬愛していたことで知られています。 新潮文庫の自伝『音楽は自由にする』では、中学2年生のときに、初めて弦楽四重奏曲を聴いたときの衝撃が綴られています。 自分自身をドビュッシーの生まれ変わりではないかと考えたことがあったと語り、その傾倒ぶりがうかがえます。 毎年行われるクラシックコンサートで、必ずといっていいほど、全国のどこかで演奏される、ドビュッシー。 彼の音楽の何が、ひとびとを魅了するのでしょうか。 ドビュッシーは、こんな言葉を残しています。 「私は、スペシャリストになりたくない。 自分を専門化するなんてバカげている。 自分を専門化してしまったら、それだけ、自分の宇宙を狭くしてしまうんだ。 みんなどうしてそのことに気がつかないんだろうか」 ドビュッシーは、自分を枠にあてはめられることを嫌がりました。 伝統的な奏法を無視したことで、彼が発表する曲の評価は、安定しませんでした。 高評価があるかと思えば、演奏中に観客が帰ってしまうほどの不評もあり、社会的な成功は、なかなか得られません。 内向的で頑固な気質と、女性にのめりこむ性格。 音楽院の教師や音楽出版の編集者など、周囲のひとたちは、扱いづらい芸術家に、手を焼いていました。 それでも、ドビュッシーは、前に進むことをやめません。 ガムランの響きに感動し、絵画や文学にインスパイアされ、唯一無二の音楽世界を求めたのです。 その結果、昨年生誕160年を迎えた彼の音楽は、後世に多大な影響を与え、ガーシュウィン、デューク・エリントン、マイルス・デイビスなど、ジャズ界においても、彼の格闘の歴史は引き継がれていったのです。 創っては壊し、壊しては創ることをやめなかった賢人、クロード・ドビュッシーが人生でつかんだ、明日へのyes!とは?

12m
Dec 02, 2023
第430話『信念が明日を切り開く』-【建築の世界に革命をもたらしたレジェンド篇】フランク・ロイド・ライト-

東京・日比谷の帝国ホテル。 今年、開業100周年を迎えた二代目本館「ライト館」を設計した、近代建築の巨匠がいます。 フランク・ロイド・ライト。 「ライト館」は、東洋風の屋根や庭、石・煉瓦が作り出す精巧な美しさから「東洋の宝石」と呼ばれました。 また、幾何学模様の内装・家具など、ライトが愛した装飾も随所にほどこされました。 一説によれば、この「ライト館」設計のベースにあるのは、1893年、ライトが26歳のときに見たシカゴ万博の、平等院鳳凰堂をモチーフにした日本館「鳳凰殿」だと言われています。 左右対称の美しさは、ライトが考案した革命的な建築様式「プレーリー・スタイル」を踏襲しています。 この建物が地震や火事にも強いことは、落成したその日に証明されました。 100年前に起きた、関東大震災。 帝国ホテルはほとんど被害がなく、復興の拠点として、多くのひとびとに安心とやすらぎの空間を提供したのです。 「ライト館」は老朽化のため、1967年にその幕を閉じましたが、当時の壁画などが今も館内のバーに残されています。 また、来年からは、現在の本館も含めて建て替えが行われ、さらなる「東洋の宝石」の継承が待たれています。 フランク・ロイド・ライトの人生は、まさに波乱万丈でした。 特に40代は、不倫、駆け落ちなど、スキャンダルにまみれ、クライアントの信頼を失い、仕事の依頼は激減してしまいます。 そんな失意の中、当時の帝国ホテルの支配人だった林愛作(はやし・あいさく)が、彼に新館設計を依頼したのです。 日本建築に感動を覚え、いつか日本で設計をしたいという信念を持っていた、近代建築の巨匠と呼ばれるライトに、世界に名立たる設計をしてほしいと願った林。 二人の思いは、100年を越えてもなお、日比谷の地に息づいているのです。 ライトは、人間的には、あまりに自由で奔放であるがゆえ、時に誹謗中傷の対象となり、マスコミに叩かれ、罵詈雑言を浴びせられました。 しかし、建築に関しては、強い信念のもと、どの作品に対しても妥協なく向き合い続けたのです。 アメリカが生んだ建築界のレジェンド、フランク・ロイド・ライトが人生でつかんだ、明日へのyes!とは?

13m
Nov 25, 2023
第429話『優しさは全てにあふれ出る』-【建築の世界に革命をもたらしたレジェンド篇】アルヴァ・アアルト-

フィンランドが生んだ、建築家のレジェンドがいます。 アルヴァ・アアルト。 彼の名前は知らなくても、彼がデザインした、北欧食器の有名ブランド、イッタラのフラワーベースやキャンドルスタンドは見たことがあるかもしれません。 流れるような曲線は、フィンランドの森の中の湖、かすかな波、あるいは、白樺の切り口をイメージしたもの、と言われています。 また、発売90周年を迎えるスツール界の王様、アルテックの「スツール60」も、アアルトのデザインです。 誰もがどんなシチュエーションでも使えるシンプルで普遍的な椅子は、今も世界中のひとに愛されています。 そのデザインが、優しく、温かみに満ちているように、彼が手掛けた建築も、自然との融和をイチバンに考えた、環境にも暮らしぶりにも優しい設計が、最大の特徴です。 生誕125年の今年、彼のドキュメンタリー映画が公開されました。 その名も『アアルト』。 彼と同じく建築家だった妻、アイノとの創作の歴史が描かれています。 同じく映画になった建築家のレジェンド「ル・コルビュジエ」との最大の違いは、女性とのスタンスの取り方かもしれません。 男性社会の建築家の象徴、コルビュジエに対し、アアルトは、妻への深い尊敬と愛情で、共作を続けました。 創作のスタイルも、画家にたとえれば、コルビュジエはエネルギッシュで活動的なパブロ・ピカソ。 アアルトは、ひとつのモチーフに優しく向き合い続けるアンリ・マティスと言えるかもしれません。 そこには、彼の故郷がフィンランドであることも大きく起因していると思われます。 彼が生まれた1898年という年は、フィンランドがロシア帝国から独立するために紛糾していた過渡期でした。 シベリウスは、名曲『フィンランディア』を、その翌年に作曲しています。 緊張と移り行く時代の中に生まれたアアルトには、激しさや暴力こそ、最も嫌悪すべきものであり、融和、調和、平和こそが、彼の祈りにも似た願い、だったのです。 建築に優しさを刻印した世界的な巨匠、アルヴァ・アアルトが人生でつかんだ、明日へのyes!とは?

12m
Nov 18, 2023
第428話『人と同じ生き方をしない』-【建築の世界に革命をもたらしたレジェンド篇】ル・コルビュジエ-

20世紀モダニズム建築の巨匠と呼ばれるレジェンドがいます。 ル・コルビュジエ。 19世紀の建築は、レンガと石で造る組積造が主流でした。 古代ローマ、古代ギリシャの様式建築を踏襲するのが、建築家の役割だったのです。 しかし、コルビュジエは、鉄筋コンクリート構造を学び、床や屋根、柱、階段だけが建築の大切な要素だと主張する、ドミノシステムを考案。 パリの都市構想においても、低層階の住宅をまんべんなく広げるより、高層マンションを建て、空いた土地に緑あふれる公園を造ることを提案しました。 採用には至りませんでしたが、斬新で大胆な発想は、既成概念にとらわれていた建築家、芸術家を驚かせました。 彼は、建築だけではなく、絵画、家具のデザイン、彫刻など、さまざまなジャンルで世の中をあっと言わせた唯一無二のアーティストなのです。 昨年、日本で唯一のコルビュジエ建築が、およそ1年半をかけてリニューアルされました。 上野の国立西洋美術館。 この世界的に有名な美術館の設計は、コルビュジエが担当。 建設にあたっては、彼の弟子であり、日本の建築界を世界に押し上げた重鎮、坂倉準三(さかくら・じゅんぞう)、前川國男(まえかわ・くにお)、吉阪隆正(よしざか・たかまさ)が協力しました。 世界遺産に登録されたこの建造群、リニューアルの最大のポイントは、前庭。 この前庭の景観を、1959年の開館時に戻したのです。 西門から入る導線は新鮮で、コルビュジエのこだわりが垣間見られます。 彼は、スロープ、ストロークを大事にしました。 建築物にどうやってアプローチするか、まず最初に見える風景は何か。 人間の微妙で繊細な目線に注目したのです。 なぜ彼は、日常に寄り添った視線を獲得できたのでしょうか。 そこには、彼の辛い挫折の日々が関係しているのです。 世界中に自らの痕跡を残した芸術家、ル・コルビュジエが人生でつかんだ、明日へのyes!とは?

12m
Nov 11, 2023
第427話『自分に満足しない』-【建築の世界に革命をもたらしたレジェンド篇】辰野金吾-

日本の近代建築の父と言われ、東京駅をつくった男として有名な建築家がいます。 辰野金吾(たつの・きんご)。 彼が手掛けた20以上の建築物は全国に点在し、100年以上の時を越え、いまなお、その堂々たる風格を見せてくれます。 日本初の石造建築として知られる、日本銀行本店本館。 和風建築の最高傑作、天見温泉の南天苑。 アインシュタインも講演を行った、大阪中央公会堂。 さらに、先月はこんなニュースで報じられました。 「辰野金吾のふるさと、佐賀県唐津市『旧唐津小学校』の校舎の礎石群が、唐津市役所で出土した」 辰野は、唐津を愛し、自らすすんで小学校の設計を引き受けたのです。 さらに、唐津の子どもたちのために奨学金を設定。 地域の発展のために尽くしました。 彼の建築技術は、頑丈で耐震性に優れ、「辰野堅固」と称され、彼が造った多くの建築物が現存する理由でもあります。 まだ建築家という職業がなかった時代に、近代建築の礎を築いたレジェンドですが、彼の残した金言には、謙虚なものばかりが並んでいます。 たとえば、「俺は頭が良くない。だから人が一する時は二倍努力してきた」という言葉。 辰野は、工部大学校、現在の東京大学工学部を首席で卒業して、国からヨーロッパへの留学を命じられても、「ほんとうに俺なんかでいいんだろうか、とにかく努力して、期待に答えるしかない」と考え、がむしゃらに建築に打ち込みました。 彼は、「うぬぼれる」というのを最も嫌悪しました。 英語が誰よりもうまいのに、さらにイギリス人について学ぶ。 建築に関しては、自分への追込み方が尋常ではありませんでした。 そこには、彼が味わった挫折の経験があったのです。 日本で最初の「建築家」のひとり、辰野金吾が人生でつかんだ、明日へのyes!とは?

12m
Nov 04, 2023
第426話『幸せは自分の中にある』-【絵画の世界に革命をもたらしたレジェンド篇】アンドリュー・ワイエス-

アメリカン・リアリズムに革命をもたらした画家がいます。 アンドリュー・ワイエス。 ワイエスの作品は、自身が生活した半径100メートル以内の日常に根差しています。 人種差別が激しかった時代にも関わらず、黒人と交流を持ち、彼らをモチーフに描きました。 画かれる題材には、ある意味、ドラマティックな華やかさはありませんが、彼は国民芸術勲章や大統領自由勲章を授与されるまでになったのです。 彼の幼少期は、孤独そのものでした。 虚弱体質、神経衰弱。 学校に通うことができず、家庭教師と父親だけが先生でした。 しかも、優秀な姉に対するコンプレックスは計り知れず、常に「ボクなんかが生きている意味あるのかな」という思いでいっぱいだったのです。 ただ彼は、絵を画くことだけは大好きで、その「好き」を生涯手放しませんでした。 ワイエスの代表作『クリスティーナの世界』。 メイン州の沿岸地域の小高い丘に、ひとりの女性が寝そべりながら、遠くの家を目指しています。 この桃色のワンピースを着た女性は、ワイエスの隣人、アンナ・クリスティーナ・オルソン。 彼女は、病気の後遺症で筋肉が衰えていく障害を持っていましたが、車いすを拒否。 両腕を使い、匍匐前進して移動しました。 その姿は、ある人から見れば滑稽に映り、子どもたちは彼女を真似して笑いました。 でも、ワイエスは、彼女の前に進む姿を見て、涙を流します。 「クリスティーナは、体は不自由かもしれないが、心は誰より自由だ。私もそうありたい」 クリスティーナも、唯一、ワイエスにだけは心を許したと言います。 「あなたには、嘘がありません。私はこういう境遇なので、ひといちばい、ひとの嘘には敏感なのです」 ワイエスは、知っていました。 幸せは、どこか遠い国にあるのではない。 自分の心の中にある。 20世紀を代表する、奇跡の画家。アンドリュー・ワイエスが人生でつかんだ、明日へのyes!とは?

11m
Oct 28, 2023
第425話『納得がいくまで前に進まない』-【絵画の世界に革命をもたらしたレジェンド篇】レオナルド・ダ・ヴィンチ-

イタリア、ルネッサンス期に活躍し、「万能の天才」と謳われたレジェンドがいます。 レオナルド・ダ・ヴィンチ。 彼の名は世界に轟いていますが、『モナ・リザ』や『最後の晩餐』を画いた画家だということ以外、いったい何をやった偉人なのか、彼について知っているひとは、それほど多くないかもしれません。 画家のほかに、解剖学者、物理学者、発明家、建築、音楽、天文学、飛行機の航空力学や軍事技師、さらには式典の舞台芸術や演出まで、彼の肩書や実績は、枚挙にいとまがありません。 そもそも、彼の名は「ヴィンチ村のレオナルド」という意味で、近年では、彼をダ・ヴィンチと呼ぶより、レオナルドと呼ぶ風潮が本流です。 つまり、彼には苗字がなかった。 というのも、彼の父は裕福な公証人で、母は不倫関係にあった年若い農家の娘。 つまり、私生児だったのです。 レオナルドは、満足に学校に通うこともなく、あらゆるジャンルの学問を全て独学でおさめました。 彼は生涯に、絵画をたったの16点しか画いていませんが、膨大な手記、日記、覚書を残しています。 彼は、疑問をすぐさまメモし、それを調べ、解決したら、やはり文書にしたためる、という一連の作業を己のルーティンにしていました。 しかも残された遺稿のほとんどが、鏡文字。 鏡文字とは、書いた字を鏡に写して初めて読める文字のことです。 なぜ、そんな面倒なことをしたのか。 レオナルドは左利きだったので、そのほうが書きやすかった、当時は特許がなく、自分の発見や発明を盗まれないため、など、所説ありますが、真相はわかっていません。 レオナルドの特徴のひとつに、異常なまでに完璧主義者だった、というのがあります。 細部にこだわりすぎて、とにかく作品が完成しない。 そのため、30歳になる頃まで、生活は貧しく、彼に仕事を発注するスポンサーは減っていったのです。 それでも彼は、自分の流儀を変えませんでした。 のちに残る作品になると知っていたからこそ、自分が納得するまで手を入れたかったのです。 世界で最も有名な芸術家のひとり、レオナルド・ダ・ヴィンチが人生でつかんだ、明日へのyes!とは?

13m
Oct 21, 2023
第424話『哀しみから逃げない』-【絵画の世界に革命をもたらしたレジェンド篇】棟方志功-

青森県出身の、20世紀の日本を代表する板画家がいます。 棟方志功(むなかた・しこう)。 今年、生誕120年を迎える彼の展覧会が、現在、東京国立近代美術館で開催されています。 『棟方志功展 メイキング・オブ・ムナカタ』。 この展覧会の特徴のひとつは、青森、東京、富山と、棟方が暮らした三つの土地をたどる、初の大回顧展であるということです。 ヴェネチア・ビエンナーレでの受賞を始め、版画絵の世界に革命を起こした彼は、「世界のムナカタ」として国際的に多大なる評価を得ました。 その創作の秘密を、彼が暮らした三つの場所からひもとく試みは、必見です。 特に注目は、久しぶりの公開となる、棟方が疎開した富山県福光町の光徳寺から依頼を受けて画いた『華厳松』。 墨がはじけ飛ぶダイナミックな筆致が堪能できます。 今もなお、世界中のファンを魅了してやまない棟方ですが、その人生は、苦難の連続でした。 そのひとつに、視力があります。 幼い頃から、右目がよく見えない。 歳とともに視力は低下し、やがて、右目は全く見えず、左目も半分は闇の中だったのです。 木版に顔をくっつけるようにして対峙する姿は、彼にとって、止むに止まれぬもの。 ただ、棟方は、日本図書センターが発刊した『人間の記録』でこう語っています。 「ただまことにおかしなもので、わたくしの右眼は、板画の刃物を持つと見えてきます」 彼は、うまくいかないこと、不器用にしか生きられない哀しみを大切にしました。 あるインタビューで、こう答えています。 「哀しむことを裏に持っていて、驚くことと喜ぶこと。 哀しみは、人間の感動の中で、いちばん大切なのであります」 絶えず笑顔でひとに接し、生きることの素晴らしさを説いた賢人、棟方志功が人生でつかんだ、明日へのyes!とは?

12m
Oct 14, 2023
第423話『自分だけの楽園を探す』-【絵画の世界に革命をもたらしたレジェンド篇】アンリ・マティス-

強烈な色彩で美術界に革命をもたらした画家がいます。 アンリ・マティス。 今年4月から8月まで東京都美術館で開催された、20年ぶりの回顧展には、連日多くのひとが訪れ、マティス人気が不動のものであることが改めて証明されました。 20世紀を代表するフランスの巨匠、マティスの特徴は、なんといっても、豊かで常識を打ち破る色彩です。 「形のピカソ、色のマティス」と称されるように、形を壊し、平面に立体を焼き付けたパブロ・ピカソに対し、マティスは、色で世界を驚かせました。 黒い輪郭線の人物や家具、金魚たち、そして、赤や青、黄色の原色が画面にあふれます。 彼の色彩美は、晩年の色紙を切って貼る、切り紙絵に結実。 こちらは、来年2月から5月まで国立新美術館で開催される「マティス 自由なフォルム」という展覧会で本格的に紹介されます。 ポップでモダンなアート作品は、現代作家にも多大な影響を与え、お店や自宅のインテリアに彼の作品のレプリカを飾るひとは絶えません。 なぜ、彼は色彩に目覚め、その才能を開花することができたのでしょうか。 マティスが生まれたのは、フランス北部のひなびた村でした。 他国との国境が近く、絶えず、侵略や戦争の脅威にさらされ、第一次世界大戦のときは、激しい銃撃戦が勃発。 村人たちは、「死」の恐怖に怯えました。 マティスの幼少期の記憶は、暗く灰色の空とレンガ色に統一された家や工場群。 そこに、色はありません。 穀物や種を扱う商いをしていた父は、子どもたちを働かせ、いつも怒鳴り散らしていました。 「早く、ここから抜け出したい。 光や色で満ち溢れた世界がどこかにあるはずだ」 それが、幼い頃の願いでした。 しかし、高速道路までおよそ80キロ。 鉄道はありませんでした。 どこにも行けない閉塞感を抱えたまま、20歳まで、ふるさとで過ごしたのです。 だからこそ、旅の行商人が都会から持ってきた、色鮮やかな織物を見たときのときめきは、生涯、彼の心に残り続けました。 彼はこんな言葉を残しています。 「見たいと願うひとたちのために、花はいつも、そこにあります」 色彩の魔術師、アンリ・マティスが人生でつかんだ、明日へのyes!とは?

12m
Oct 07, 2023
第422話『自分のアイデンティティーを守る』-【文学に革命をもたらしたレジェンド篇】グリム兄弟-

ドイツに古くからある民間伝承を丁寧に集め、童話を文学の1ジャンルとして確立したレジェンドがいます。 グリム兄弟。 兄ヤーコプ・ルードヴィヒ・カール・グリムと、弟ヴィルヘルム・カール・グリムの二人は、協力し合い、『グリム童話』を世に送り出しました。 『赤ずきん』『シンデレラ』『ヘンゼルとグレーテル』『白雪姫』『ラプンツェル』など、その多くはディズニー映画のもとになり、全世界で最も知られる物語のひとつになったのです。 鬼才テリー・ギリアムは、2005年に『ブラザーズ・グリム』というファンタジー映画を撮りましたが、童話がこんなにも有名である一方、作品を紡いだグリム兄弟については、意外に知られていません。 彼らはなぜ、民間伝承に興味を持ち、気の遠くなるような作業を経て、童話に心血を注いだのでしょうか。 彼らが生きていた時代は、ドイツという国家はなく、ナポレオンひきいるフランス軍が侵攻、神聖ローマ帝国が崩壊していきました。 ドイツ民族である自分たちのアイデンティティーが戦争によって、脅かされる、そんな激動の渦の中にあったのです。 グリム兄弟は、優れた言語学者として『ドイツ語辞典』や『ドイツ語文法』を出版する一方、古くから伝わる民話を集め始めます。 『童話集』の前書きには、こんな言葉が書かれています。 「今こそ、昔から伝わる物語を、しっかりと心にとめる時であると思います。 なぜなら、昔話を覚えているひとがどんどん減っていくからです。 人間は、昔話から離れてはいけない。 そこには大切な教えが書かれているのです。 私たちは、家の隅や庭の暗がりに潜むものを守らなくてはいけないのです」 グリム童話集が刊行された1812年は、奇しくも、ナポレオン軍が大敗をきっした年でもありました。 先祖代々、口伝えで語り継がれてきた物語を、あたかも、古い箪笥の引き出しから取り出して、ほこりを払い、ほころびを直すかのように、再び世に出し、後世に残す。 そんな地道な作業こそ、彼らにとっての己を守る戦いだったのです。 貧しさに苦しみながらもドイツ民族の誇りのために生きた賢人、グリム兄弟が人生でつかんだ、明日へのyes!とは?

14m
Sep 30, 2023
第421話『しっかりした眼差しで自分を見る』-【文学に革命をもたらしたレジェンド篇】アントン・チェーホフ-

世界的に最も偉大な劇作家のひとりであり、短編小説の名手としても知られる、ロシアの文豪がいます。 アントン・チェーホフ。 『かもめ』『ワーニャ伯父さん』『三人姉妹』『桜の園』など、毎年、必ずどこかで彼の演目が上演され、多くの観客を魅了し続けています。 当時のロシア文壇では長編小説が主流でしたが、チェーホフは、巧妙に計算された短編小説で革命を起こしました。 戯曲にも通底している彼の作品の特徴は、「何かが起こっても、何も起こらない」。 大きな事件や派手なクライマックスはなく、ただ淡々と日常が切り取られ、情けない人やうまく生きることができない人間を過度な感情を削ぎ取り、描いていくのです。 彼の小説は、海外の作家にも大きな影響を与え、日本の小説家もチェーホフの作品に触発されました。 井伏鱒二、志賀直哉、そして太宰治の『斜陽』は、チェーホフの『桜の園』に着想を得たのではないかと言われています。 影響を受けた作家のひとり、井上ひさしは、チェーホフの演劇的な革命として、次の3つを挙げています。 主人公という概念を変えたこと、テーマを排除したこと、物語の構成を変えたこと。 チェーホフは、24歳で感染した結核に苦しみながら、医者として多くの患者を時に無料で診断、治療し、その一方で戯曲や小説を書き続けます。 わずか44年の生涯を、一秒足りとも無駄にしないように、走りぬけました。 『ワーニャ伯父さん』に登場する医者・アーストロフに、こんなセリフがあります。 「朝から晩まで、一日中、立ちっぱなし。 休む暇なんてないよ。 夜は夜で、いつ何時、患者から連絡があるかと、毛布にくるまってビクビクしているんだ。 私はね、この10年、たったの一日だってのんびり過ごした日はないんだ」 チェーホフは、なぜそこまで自分を追い詰め続けたのでしょうか。 生涯、自分を冷静に見つめることをやめなかった賢人、アントン・チェーホフが人生でつかんだ、明日へのyes!とは?

12m
Sep 23, 2023
第420話『NOと言い続ける』-【文学に革命をもたらしたレジェンド篇】大岡昇平-

『俘虜記』『野火』『レイテ戦記』という作品群で、近代日本の戦争文学の在り方を一変させた、レジェンドがいます。 大岡昇平(おおおか・しょうへい)。 特に、1952年に発刊した『野火』は、極限状態での人間のあり方を説いた戦記小説の金字塔として、世界各国で翻訳され、いまなお読み継がれている名作です。 大岡自身、戦地を体験しました。 召集されたのは、35歳という兵士としてはかなりの高齢。 サラリーマン生活を送っていた頃のことでした。 1944年3月、終戦までおよそ1年5か月。 日本は、じりじりと追い詰められ、各地で消耗戦を余儀なくされていました。 7月、大岡はフィリピンに送られ、ミンドロ島のサンホセという場所で暗号の解読係の命を受けました。 しかしその3か月後、大日本帝国海軍連合艦隊は、レイテ沖海戦で撃沈。 ミンドロ島にいる陸軍兵士たちは、支援のないまま、取り残されてしまったのです。 翌1945年、マラリアに犯された大岡は、ひとり密林をさまよいます。 このときの孤独、想像を絶する飢え、恐怖体験が、『野火』に結実したのです。 手りゅう弾を使って自害をはかりますが、失敗。 銃で命を断とうとしますが、これも未遂に終わり、意識を失ったところをアメリカ兵に捕らえられました。 捕虜収容所で、終戦。 捕虜時代の体験をもとに、『俘虜記』を書きました。 なぜ、彼は書いたのでしょうか。 それは、戦地で亡くなっていった戦友への鎮魂、贖罪、そして、言葉で残さないかぎり、人間はまた戦争という同じ過ちを繰り返すのではないかという危機感だったのかもしれません。 彼は、言葉の力を信じていました。 発言することの重要性も、ことあるごとに提示しました。 あるインタビューでは、こんな言葉を残しています。 「NOと言い続けるのが文学者の役割である」 常に忖度を嫌い、己の思いを隠さなかった賢人、大岡昇平が人生でつかんだ、明日へのyes!とは?

12m
Sep 16, 2023
第419話『自らの自由を守る』-【文学に革命をもたらしたレジェンド篇】ジョージ・オーウェル-

今も読み継がれているディストピア小説『1984年』の作者で、今年生誕120年を迎えるレジェンドがいます。 ジョージ・オーウェル。 本名は、エリック・アーサー・ブレア。 イギリス植民地時代のインドに生まれた彼は、誰も書いたことのない、未来の預言書をこの世に送り出しました。 衝撃作『1984年』は、こんなストーリーです。 1950年代に核戦争が起こり、世界は、オセアニア、ユーラシア、イースタシアの3つに分断。 三国は、常に戦争状態にありました。 物語の主人公、ウィンストン・スミスは、オセアニアの真理省に勤務。 「過去のデータの改ざん」を仕事にしています。 オセアニアは、ビッグ・ブラザーと呼ばれる独裁者に支配された全体国家。 市民の思想や言動、教育も厳しく統制されています。 街中に設置された巨大なテレスクリーンが、24時間、人々を監視しているのです。 スミスは、過去のある新聞記事を見つけたことから、社会、政府への疑念を抱きます。 彼は、政府の目を盗み、反逆ともいえる「日記」をつけ始め、日常が大きく傾いていくのです…。 報道の捏造や、増え続ける監視カメラ、さらに今も続く戦争。 今から74年前に書かれた小説が、現実のものとして、私たちに迫ってきます。 小説『1984年』は、多くの芸術家、文化人に影響を与え続けてきました。 デヴィッド・ボウイは、この小説にインスパイアを受け、アルバム『ダイアモンドの犬』をリリース。 『1984年』という曲も発表しています。 ジョージ・オーウェルがこの小説を書いたのは、45歳のとき。 亡くなる1年前のことです。 出版後、彼はこんな言葉を残しています。 「私の描いた社会が、必ず出現するとは思いません。 ですが、おそらく出現すると思っています」 未来を予感し、自由と平等を奪われた世界の恐ろしさを描いた賢人、ジョージ・オーウェルが人生でつかんだ、明日へのyes!とは?

14m
Sep 09, 2023
第418話『今を切に生きる』-【文学に革命をもたらしたレジェンド篇】瀬戸内寂聴-

波乱の人生の果て、51歳で出家。 常に「愛すること」の大切さを説いた規格外の作家がいます。 瀬戸内寂聴(せとうち・じゃくちょう)。 2021年11月9日、99歳で亡くなった寂聴の作品は、今もなお読み継がれ、彼女のストレートに響く言葉は、多くのひとを救っています。 今年6月、幻冬舎から出版された一冊の本が、話題になっているのをご存知でしょうか。 延江浩(のぶえ・ひろし)著・『J』。 85歳の作家で尼僧の「J」と、37歳のビジネスマンとの恋愛を描いた衝撃作です。 「J」のモデルが瀬戸内寂聴であることは、明白。 フィクションの体をとっていますが、まるでそこに寂聴がいるかのように息遣いまでも再現された小説は、延江浩の端正な筆致と膨大な取材量に裏打ちされて、私たちの心に、これまで味わったことのない感動を与えます。 この小説は、人間の業を肯定し、愛に生きた「J」を描くと共に、作家・瀬戸内寂聴の人生をリアルな湿度と痛切で辿っているのです。 寂聴は、大正11年生まれ。 大学在学中に結婚。娘を出産しますが、夫の教え子と恋に落ち、夫と幼い娘を捨て、家を出ます。 その後、小説家としてデビュー。 41歳のとき、自身の体験をもとに女性の愛と性を描いた『夏の終り』で、女流文学賞を受賞して、作家としての地位を不動のものにします。 ベストセラー作家として、これからというとき、彼女は突然、出家を発表。 しかし、その後も旺盛な創作欲は変わらず、生涯で書いた作品は400点を超えます。 寂聴を表するとき、多くのひとが口にするのは、笑顔です。 仏教の言葉「和顔施(わがんせ)」を、そのまま具現化したような笑い顔。 相手に笑顔を施すことがひとつの徳になる。 笑えば自分も元気になる。 ただ、その笑顔の下に、どれほどの苦しみや後悔が隠されていたか、うかがい知ることはできません。 ただ、彼女は晩年、言い続けました。 「人生の意味とは、愛すること。そして愛するとは、ゆるすこと」 己の欲や業に真っすぐ向き合ったレジェンド、瀬戸内寂聴が人生でつかんだ、明日へのyes!とは?

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Sep 02, 2023